小説『 モダン・アート 』8
僕は241回の嘘について考えた。彼らはあるいは彼女らは友人を身代わりにして、この場所に誘ったわけだ。僕は入り口を眺めて騙されてこの店に入ってきた人々の姿を想像した。人々はまず客の少なさに驚きカウンターに腰をおろしただろう。長髪のわけのわからない店員の態度に苛ついただろう。騙されたと気付いた時には自分だけが取り残されている僕と同じように。窓の外に当たり前に流れていく風景を眺めながら自分だけが時が止まったままの感覚に襲われる。自分を恥じただろうか?騙した友人を呪っただろうか?僕は、と考えた。僕はそのことに傷付きはしなかった。自分も今まで似たようなことを知らず知らずにしているに違いない。それが、今、ブーメランのように戻ってきた。241回。241人。241個のブーメラン。
その日の夜も西嶋の夢をみた。縁側に並んで麦茶を飲みながら会話をした。慌ただしい蝉の鳴き声と時々吹く風に揺れる風鈴の音が重なり合って音楽を奏でてるようだった。僕はとてもリラックスして両足を伸ばして真夏の暖かい日差しを裸足に感じてリズムをとった。僕が何年も前に忘れてしまっていた感覚だった。「 電話をかけただけでも前に進んでいますよ 」と西嶋は言った。「 なんだか寿命をすり減らしてしまった気分です 」と僕は苦笑いをした。
「 心をゆっくり開いていくことです。自分自身じゃない全く違う自分になる必要も本当の自分を探す必要もありません。いつもと違う道で出勤をしたり、いつもと違う飲食店で食事をしたり、普段、観ない読まない種類の映画や本を読んだりしてみることです。そんな小さなことを積み重ねていくことで微かに心が開いていきます。そしてそれは確かにあなたの心を温める大切なものに変わっていきます。」と西嶋は言った。だから僕は共感をしたりできないんですか?と西嶋に尋ねた。「 私の考えですが、芸術家が人々の共感を得たい為に作品を残してきたわけではないと思います。時には批判されたり、人の目に触れることなく散ってしまった才能もあったでしょう。共感より、想像です。その作品を見て心臓を鷲掴みにしてしまうような、別世界に連れていけるような、想像される作品を生み出すのが芸術家の役割、使命だと私は思います。共感だけでとどまるようならその作品は価値はありません。想像の先に共鳴があります。共鳴しあえれば二度と忘れられることはありません。いつも繋がっているのです、何処にいても何をしていても 」と西嶋は言い麦茶を一気に飲み干した。僕もそれに習って麦茶を飲み干した。グラスの中の氷が心地よい音を立て時間をかけて溶けていった。
小説『 モダン・アート 』7
小説『 モダン・アート 』6
目を覚ました時、自分がどこに居るか解らずパニックになった。見慣れない家具と窓のない部屋。理解するのに時間がかかった。そもそも那須は何故こんな事をしているんだろう。気味の悪いゲームの様に感じて嫌な汗が吹き出た。これは何かの実験で一部始終を誰かに観られている。閉じ込めらた人間が自分と引き換えに親しい友人連れてくる様を、裏切りを楽しんでいるかもしれない。「 これで解っただろう?本当の友情なんてありゃしない。みんな、自分が可愛いんだよ 」と腹を抱えて笑ってるかもしれない。ミンナ、ジブンガカワイインダヨ。
携帯電話のアラーム音が鳴った。リストラされた後も変わらず毎朝起きていた時間にセットして起きた。不思議な事に自由を手に入れた後は、不自由を探していた。アパートから観える電車を眺め「 一体、どれだけの人がつまらない仕事の為にこの電車に乗っているんだろう 」と思った。そして最近までその電車に乗っていた。あれほど乗りたくなかった電車が今では恋しく思える。
ドアを開けて店内に入った。那須はスポーツ新聞を広げてコーヒーを飲んでいた。
「 おはよう。朝はトーストしかないけどいいかな? 」と那須は言った。
構いません、と僕は言った。店に閉じ込められて食事が出てこなければ本当に頭が狂ってしまう。贅沢は言えない。
僕はカウンターの席に座り置いてあったスポーツ新聞を広げ読んだ。特に読むべき記事は無いように思えた。ある有名人同士の不倫記事、元スポーツ選手の覚せい剤の記事、人気アイドルグループの解散騒動の記事。こんなもの読んで何が面白いんだろう。それ以外に伝えることがあるだろうにと思った。「 共感がポイントなんだよ 」と那須がカウンター越しにおぼんを渡すのと同時に言った。
おぼんの上には温かいコーヒーとシャリの上にガリがのっている寿司が置いてあった。
「 トーストじゃなかったんですか? 」と僕は返ってくる返事を分かっていても冷静に聞いた。
「 おや?おかしいな。どう見てもトーストに見えるけどね 」と那須は真剣に言った。
僕はコーヒーでそれを流し込んだ。やはりガリだった。何年生まれ変わっても言い切れるくらい正真正銘のガリだった。
「 新聞社だって商売でやっている。人間が共感できることを記事で書くのが当たり前。誰が数年前に月に向けて打ち上げられたアポロの事に興味があるだろう?人間は目の前で起きてそうな事にワクワクする生き物。虐待の記事があれば『 なんて酷い親なんだ 』と怒り自分に言い聞かせる。『 私は違うんだ、コイツラとは違うんだ 』って。その話題が友達や仕事仲間とのランチの時間や保育園のお迎えに出くわした母親達と交わされることになる。そこで共感し合う。私たちは子どもにそんな酷い事はしないと。今は共感し合えなければ商売だってできない。そして友達だってできない 」と那須は言った。まぁ、それでも三年以内に新聞社は一社にまとまると思うけど、と那須は笑いながらコーヒーを飲んだ。
僕もそれにつられてコーヒーを飲んだ。口の中に違和感を感じる。それがガリのせいだと分かってはいるが居心地の悪さにいつもより早くコーヒーを飲み終えた。
「 さて 」と那須は言った。
「 あなたに共感している友達に電話しましょうか?そうしなければあなたはこの店から出る事ができない 」と那須は言った。
後ろを振り向くと23号線を白や黒の車がひきりなしに通っていった。世界は僕無しでもいつも通り回っていた。僕が住んでいるアパートに帰ってきてない事を誰が心配してくれているだろうか。僕は首を振り携帯電話を再び開いた。
小説『 モダン・アート 』5
小説『 モダン・アート 』4
僕は湯呑みにお茶の粉を一杯分入れ、備え付けのお湯を注ぎ両手でゆっくりお茶を飲んだ。喉元を温かいお茶が通り過ぎる。「 本当はこんな時間を望んでいたんだ。美味しい寿司を食べて少しでも落ち着ける時間が欲しかったんだ 」と少し涙が出そうになった。
「 ガリですね。正真正銘のガリです 」と僕は言った。
ふぅ、と那須は深い溜息をついた。溜息をつきたいのはこっちの方だった。想像力が足りてないんだ、と那須は言った。見えてるものだけが全てじゃないんだとも言い、僕の目の前にもう一皿置いた。さっきと同じ様にシャリの上にガリがのっていた。
「 中トロです 」と那須は言った。今度は笑っていなかった。
「 馬鹿にしているんですか?僕は客ですよ?想像力?そんなものがここで何の役に立つと言うんですか?僕は普通の寿司を食べに来たんです。普通のえんがわや中トロを食べに来たんだ。ガリを食べに来たわけじゃない 」と僕は言った。客のいない店内に声が鳴り響いた。僕はまるで舞台稽古をしているみたいだな、と虚しくなった。「 ガリを食べに来たわけじゃない! 」こんな台詞がある舞台はどんなタイトルが似合うだろうか?
「 お客さんの友達は、本当にお客さんの友達ですか? 」と那須は言った。
「 どう言う意味ですか? 」
「 言葉の通りです。さっき会ったお客さんの友達は、本当にあなたの友達ですか? 」と那須は言った。
「 当たり前じゃないですか。僕の名前も電話番号も知っていた。卒業アルバムでも確認したんだから 」と僕は言った。
「 何の違和感もなかったですか?外見や声。お客さんは名前や電話番号を知っていたと言う理由だけで、彼を友達と決めつけてませんか? 」と那須は言った。
そう言えば武丸君がトイレに席を立ってから随分時間が経っていた。掌にじんわり嫌な汗をかいていた。今度は掌をゆっくり眺める余裕はなかった。
「 看板にスシローと書いてあるから、この店はスシローだと思っている。でも可笑しいと思いませんか?お客さんがあなたが以外、ただの一人もいない。なんでだと思いますか? 」と那須は言った。
僕は首を横に振り、分からないと答えた。
「 この店は、お客さんがお客さんを連れて来るんです。そうしなければ、この店を出ることができない。あなたの友達は、友達と思われる人物は、この店から出る為にあなたを食事に誘ったんです 」と那須は言った。
「 まさか 」と僕は言った。そんなことが、そんな場所があるわけがない。僕は入り口まで急ぎ足で歩いてドアを開けようとしたがドアは押しても引いても開かなかった。待ち合い室にあるパイプ椅子を窓ガラスにぶつけてみたが鈍い音を立てただけでビクともしなかった。携帯電話で武丸君に電話してみたが「 この電話番号は現在使われておりません 」と告げられていた。僕はそのまま警察に電話をかけた。繋がったと思ったが天井スピーカーから僕の声が聞こえてきた。
「 武丸君は、この店を出るのに4ケ月と10日と8時間12分14秒かかりました。今まで来たお客さんの中ではまずまずのタイムです 」と那須は言った。
「 こんなことは間違っている 」と僕は叫びながら言った。こんなことが許されるわけがない。
「 正しさが全ての人間にとっての正しさではない。間違いが全ての人間にとっての間違いではない。一人一人の捉え方次第です。その人間が今までどう生きてきたか、どう生きていきたいかによって、それは正しいものにも間違いにもなる。俺がしていることを俺自身は1ミリも間違ってると思わない。あなたがどれだけ間違いを嘆いても何も変わらない。1ミリもあのドアは開かない。あなたが唯一できるのは携帯電話から友達を誘うことしかできないんですよ 」と那須は言った。
僕は携帯電話を観た。僕が電話をかけれる友人は何人いるだろうかと考えた。食事を誘って来てくれる友人は何人いるだろうか。携帯電話が首を傾げている様に観える。傷つかない様に面倒事から避けてきた。僕は今までそうやって生きてきた。それが正しいか間違ってるか僕には分からない。
小説『 モダン・アート 』3
「 お客さんは俺の外見を見てこう想っている。長髪で無精髭を生やしている店員が寿司なんて握れるわけがない 」と那須は言った。
当たり前の話だった。100人いたら100人同じ考えに辿り着くに決まっている。そしてそんな店員の寿司なんて食べたくない。
「 俺が世界で一番美味い寿司を握れると言ったら、お客さんは笑うでしょ? 」と那須は言った。
僕は静かに頷いて自分の掌を観た。僕には時間が腐る程あったが、つまらない話にずっと耳を傾けていれる程、心に余裕はなかった。僕は昔から話のつまらない相手に会った時、掌を見つめてしまう癖があった。手相のことを考えている方がよっぽど楽しかった。右手と左手を交互に見て比べる。どちらの手相を見て判断すればいいのかいつも迷ってしまう。ある人は右手だと言うし、ある有名人の本では左手と書いてあった。マジックペンで付け足して運を上げることもできるらしいが、未だに効果は出ていない。
「 これを食べてみて下さい 」と那須は僕の目の前に寿司を一皿置いた。シャリの上にガリがのっていた。
「 僕の目の視力が落ちていなければ、シャリの上にガリがのっている様に見えますね 」と僕は皮肉たっぷりに言った。
「 見た目はね 」と那須は言った。でも味は、えんがわですよ、と人差し指を立てながら那須は笑った。
僕は両手の掌の手相を隅々まで観た。「 近々とても不運な日がやってきます。間違っても友人に食事を誘われても断ること 」と教えてくれていないか探した。探せば探すほど自分の意思の弱さを呪った。叫びたくなるのを我慢して、目を閉じながら一口で食べた。
小説『 モダン・アート 』2
案の定、店内には客は一人もいなかった。僕と武丸君はカウンターに座った。回転寿しのレールには一皿も乗っておらずコンベアも止まっていた。消毒液がきつい程匂い、天井スピーカーから静かにジャズが流れていた。スシローでジャズ?客で賑やかな店内しか知らない為か今までは気付かなかったかもしれない。僕は携帯電話をみた。間違いなく12時15分と表示されていた。
「 たまたまだよ 」と武丸君は手を組みながら言った。この状況がたまたまだと願ってる様な組み方だった。「 好きなもん食べていいよ、スシローぐらいしか奢れないけどな 」と言い武丸君は席をたった。僕はレール上に貼り付けてあるメニューをみたが、いつものスシローのメニューだった。この状況はたまたまで、むしろ面白いネタになるかもしれないな、と僕は思った。でも誰に話す?すぐに思いつく人がただの一人もいなかった。
僕は呼び鈴を鳴らした。男の店員が厨房からのそのそ歩いてきてカウンターごしに僕の前に立った。「 やぁ! 」と店員は言った。初めその言葉が僕に言われたのか分からなかった。店員とは初対面だったし、店員が客に接する態度じゃない。僕は思わず後ろを振り返ってみた。勿論、誰もいない。
店員は肩までかかる黒い長髪でパーマをかけて顎に無精髭を生やしていた。帽子を申し訳ない程度に頭に被っていた。被るというよりは置いているという表現がぴったりくるかもしれない。スシローの制服を着て名札には『 那須 』と書かれていた。驚くことに店長だった。 「 何にしますか? 」と那須は言った。
「 え? 」と僕は聞き返した。
那須は苦笑いしながら「 お客さん寿司食べに来たんですよね? 」と言った。僕はすみません、と言った。何故、食事をしにきた僕が店員に謝らないといけないんだろう。
「 目に見えてるものだけが全てじゃないんですよ? 」と那須は言った。
僕は肯定も否定も出来ずにいた。一体この状況で誰が寿司を注文できるだろう?