小説『 レトリック・サーカス 6 』ジキルとハイド
自分の子どもを自分の手で殺す。
残念ながらこの世界では、そんな親が死ぬ程、存在する。
現に今日だけで何人目だろう?
だからと言って、岳本慎に憑依したジキルとハイドは、躊躇など一切しない。
岳本慎は、風呂場で長男の雅史の頭を湯船に押さえつけている。右手で後ろ首を掴み、左手は頭を押さえつけている。
雅史も急な出来事で驚いている。父親がこんな冗談をする様に思えないし、高校に入学してから3年間、父親と会話をした覚えがない。
湯船の中で、もがけばもがく程、酸素はなくなり、気泡の数の量が多くなっていく。
何故?何故?何故?雅史は何度も父親の手を振り払おうとするが、湯船から両手の手首を出すのがやっとの状態。
岳本慎は笑っている。
本当はもっと大声で笑いのだろう。楽しくて楽しくて仕方ないって顔をしている。
家族の絆は、ほんの少しのすれ違いで、修復不可能になってしまう。遠くからは分からない。近くに寄って見ると、ボタンの留め位置は擦れて、そのうち面倒になってかけ直す事を諦める。
岳本慎の人生は、常に妥協を選んできた。洗濯干しのやり方、衣服類のたたみ方、クローゼットやタンスの収納の仕方、部屋掃除のペース、トイレットペーパーのストックの数、食器の趣味、玄関に置く靴の数、テレビチャンネルの主導権、週末の予定、妻や子どもが在るべき姿。
自分と同じ人間なんているはずがないのだから、同じ考え方や感覚で人生を共にできるはずがない。
妥協。それぞれが、その気持ちさえあれば、争い等、生まれるわけがない。
しかし、雅史は、自分の意見を持たず生きている父親を馬鹿にしていた。
「 そんなの死んでると同じだろ? 」
岳本慎は、雅史に対して怒りより、憐れみを強く感じた。自分が妥協して、今の妻を選ばなければ、お前は産まれてこなかったんだよ。そんな簡単な事も分からないのか?
だから、殺す事にした。
自分が殺さなければ、いつかお前は自分のつまらないプライドのせいで、誰かを深く傷つけてしまう。
「 どこにでもいる普通の父親に見えるんだけど 」とジキルは言う。
「 俺は普通って言葉を信じない。普通の人間なんて、この世界に存在しないからだ。人間は、それぞれ少しずつ可笑しいし、狂っている。それを認めないから殺し合う 」とハイドは言う。
「 僕らの出番が増えるわけだ。そうなると普通の死神も存在しないって事? 」とジキルは言う。
「 死神は普遍だ。人間が存在する限り 」とハイドは言う。
岳本慎は、いつか後悔するだろか?雅史は父親の子どもに産まれた事を恨むだろうか?
「 悪いな。死に方は選べないんだ 」とハイドは言う。
その言葉は、永遠に雅史には届かない。