小説『 レトリック・サーカス 5 』小久保とミシュランマン
【 約束 】
《 当事者の間で決めること。また、その決めたこと。 「譲ることを-した」 「 -を破る」
ある社会・組織などで、あらかじめ決められていること。きまり。ルール。 「演技上の-」
生まれる前から定まっている運命。宿命。因縁。 「前世からの-」》
約束をする人がいるなら、その約束を待っている人がいる。
そんな難しい約束や、大それた約束じゃなくていい。
友人をランチに誘う。約束の時間より15分前に店に着く。テラス席でぼんや街を眺めていると救急車が通り過ぎていく。違うとは思うけど友人のことが気になる。約束の時間を5分過ぎた頃にLINEで連絡がくる。安堵する。同時に空腹が襲う。待つ方は、いつもお腹が減る。
「 そんなわけで、早く報告に行かなきゃいけないんだよ 」と小久保は言った。
戦争映画に出てくる様なボロボロの状態で、小久保が僕の店にやってきたのは、閉店15分前だった。
左瞼は目が確認できない程、腫れ上がり、前歯は折れて歯茎から血が流れていた。鼻は変形して右寄りに傾いていた。脇腹が痛むのか、庇う様に前乗りになりながら、指の曲がらなくなった右手で摩っていた。
渡したタオルはみるみる真っ赤に染まっていった。どれだけ渡しても止まらないんじゃないかと思うぐらい血は止まらなかった。
小久保は、プロレスラーのチャンピオンになったばかりだった。僕はプロレスに全く興味がないので、彼が「 チャンピオンになったばかりなんだ。でも、それも今日までだけどな 」と言った時は信用できなかったが、検索したら顔の原型がギリギリ彼だったので信じることにした。
「 約束したんだよ、チャンピオンになったら会いに行くって 」と小久保は言い、こんな状態でも交わした約束を果たす意味の経緯を僕に話した。
ー『 安曇荘 』は高層ビルに挟まれる様に建っていた。
二階建てのアパートは朽ち果ていて、外には洗濯機があり洗濯物が不幽霊の様に風でなびいていた。
ポストは野晒しで設置しており、ペンキが剥げて錆びついていた。
小久保は103号室の名前を確認したが、書かれておらず諦めて103号室のドアをノックした。
コン、コン、コン。
3度ノックしたが返事はない。
灘丘は本当に此処に住んでいるんだろうか?
もう1度、小久保はノックした。
部屋の中で誰かが咳払いした気配がした。
「 灘丘さん、一緒の施設で育った小久保です。あなたに会いたくて此処まできました 」とドアをノックしながら小久保は言った。
ズルズルと何かを引きずった音がした。
その音はドアのすぐ反対側で止まった。
長い沈黙の後「 人違いです。私は櫻井です 」とドアの反対側から声がした。
「 あの図書館に行きました。人の記憶を引き取ってくれる図書館です。灘丘さんの記憶を俺は借りました。灘丘さんがプロレスラーの時の記憶です 」と小久保は言った。
「 あなたは俺の憧れでした。施設に遊びに来てもらった時、あなたと父親の話をしました。あなたを施設送りにしたにも関わらず、あなたは《 それでも、俺は生きている 》と言った。《 父親がいなければ、俺は、この世に存在していないんだよ。それにどんなクソみたいな父親でも、たった一人の父親だからな 》と俺の頭を撫でながら笑っていました。その時、俺はあなたの様な人間になりたいと思いました。強くて心の優しい人間に 」
「 申し訳ないけど 」と言うドアの反対側の声を遮る様に小久保は続けた。
「 俺はタクシーの運転手をしていましたが、またプロレスを始めたいと想ってます。1年後にあるテストにも申し込みました 」
「 わざわざ、それを言いに此処まで来たんですか? 」
「 あなたに、ありがとうが言いたくて来たんです。図書館の館長の助手が言ったんです。《 伝えたい気持ちがある時は、生きている間に伝えるべき 》って 」
「 佐々木くん? 」
「 そうです。15歳の子どもに教えられるなんて笑えますよね。今度、俺があなたに会う時はチャンピオンになった時です。また、来ますね 」と小久保は言った。ー
「 ドアの反対側で笑った気がしたんだよ。そんな気がしただけかもしれないけどな 」と小久保は言った。
「 ドラマみたいです 」と僕は言った。【 ドラマみたいです 】、、、仮にこれがドラマだったとしたら、この台詞は外されそうだ。
「 俺は俺自身の人生に対して、諦めることを諦めたんだよ。白旗をあげるだろ?でも覚悟さえ決めてしまえば、その旗を前よりほんの少し高く上げることができる。その旗を必ず誰かが見ている 」と小久保は言った。
店のBGMがホレス・シルバーの『 ソング・フォー・マイ・ファーザー 』に切り替わった。「 僕に手伝えることは、ありませんか? 」と僕は言った。